我が眷属よ
2014年 06月 28日
彼は、教職の免許をとるために、大学で勉強をしており、レポートを
書くために教えてほしいことがあるとのこと。
2年間同じ職場で仕事をしていましたが、
まわりから、いろいろといじめられることがあり、
その度、「色んな人がいるが、ひとはひとだ、言わせておけばいい」と
励ましてきました。
いじめられている姿が、信心して間もないときの若い時の私に似ており
いつか折伏したいな、と思っているうちの一人でした。
そんな彼が、仕事を辞めて、教育の道にすすむために、大学に入りなおしたときは「A君らしい道を見つけたな!頑張ってな!また会おう!」と門出を祝福しました。
あれから2年、今回の返信メールに、波濤会の写真展に行ったことと、
そのときのパンフの写真をつけて送ったところ、
RE返信メールで、
「ランナーさんも、学会員だったんですか。親戚に学会の方がいて、
我が家も、聖教新聞をとっています。…とくに教育のことについて、私も
聖教新聞を読んで勉強をしています。」と返ってきました。
最近、題目をあげる中で「悩める友に、我が眷属に出会わせてください!」と
祈ってきたところ、眷属が現れた。
さて、毎月、分県で行っている「法華経の智慧講義」も今月より、第5巻となった。
その中で、このようにありました。
「境涯の妙」だね。健康で、生命がはずんでいる人は、質素な食事であっても
おいしい。憂いに沈んでいれば、最高のごちそうでも「砂を噛んでいる」よう
になる。
耳根清浄の人は、赤ん坊の泣き声も、モーツアルトの曲に聞こえるかもしれな
い。奥さんに叱られている声も、交響曲のように聞こえれば、素晴らしいですね。
どんなことでも楽しいということは、戸田先生が強調された「絶対的幸福境涯」
にあたりますね。…例えば夫婦喧嘩をしても楽しい、腹が立っても愉快に腹が
立つとも言われています。
大きな青空に、真綿の雲を広げて、その上で悠々と下界を見おろしているよう
な境涯です。そういう高い境涯になるためには、ジェット機のように、
一心不乱に、信心一筋に走りなさいというのが「法師功徳品」なのです。
「法師」とは「広宣流布のリーダー」です。広宣流布に身命を捧げた人のこと
です。自分が「法師」になれば、絶対的幸福境涯という「大功徳」があるのです。
六根清浄とは「全身これ広宣流布の武器たれ」ということです。
要領ではなく、計算ではなく、不惜身命で広布へ働くとき、限りない生命力が
全身にしみわたってくる。智慧もわく、元気もわく、慈愛もわく。
どんな悩みがあっても、全部「価値」に変えていける。「功徳」に変えていける。
その大生命力を「法師功徳」というのです。広宣流布ひとすじに生きた人は必ず、
「これ以上はない」という無上道の軌道に入っていくということです。
前進しきった人が、必ず勝つ。
題目を唱えきった人が必ず勝つのです。
来月の座談会は、Y副会長をお招きして、開催します。
「奥さんに叱られても、交響曲のように聞こえる」「腹が立っても愉快に腹が立つ」絶対的幸福境涯をめざして、7月青年の月、友との対話、我が家庭、地域の広宣流布に戦い抜いていきたい。
写真は、大誓堂の勤行会に向かう飛行機の窓から撮った雲海の写真です。
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